樹齢300年の 茶の樹


〜「宇治は茶所、茶は政所」と歌われた政所のお茶〜


茶畑の風景。
滋賀県のお茶」といえば朝宮茶や土山茶が有名だが、歴史上、天下に名を轟かせたお茶が県内に存在していた。それは、鈴鹿山脈の谷あいの集落、東近江市政所町で生産される、「政所茶」と呼ばれるお茶だ。いまでは“幻の銘茶”とまで言われる「政所茶」は、かつて「宇治は茶所、茶は政所」と茶摘み唄にも歌われ、朝廷や彦根藩などにも献上されていたほどの銘茶。現在は政所の集落も少子高齢化に見舞われており、十数軒の農家が細々と「政所茶」を生産している。
 日本で最初にお茶の木が育てられたのが、滋賀県だったと伝えられており、滋賀とお茶との関わりは深い。比叡山を開いた最澄が中国(唐)からお茶の種を持ち帰り、比叡山の麓、坂本の日吉大社あたりに植えたのが日本茶の栽培の始まりとされており、現在も「日吉茶園」として手厚く保護されている。
 そんな滋賀県で生産される幻の銘茶、「政所茶」は、鈴鹿山脈に源を発する愛知川の支流、御池川の谷筋に広がる東近江市政所町の集落で大切に育てられている。



昔は夜、薪で火を起こして霜が下りないように気をつけていたという。
 政所の地にお茶が初めて伝えられたのは室町時代のこと。周辺の村々は、古くから“木地師”(きじし)と呼ばれる木工職人たちの本拠地であったが、農作物としては霜の害のため、粟などの雑穀ぐらいしか生産できなかった。そこへ、紅葉の名所として知られる臨済宗の禅寺、永源寺の越渓秀格禅師が、政所周辺はお茶の栽培に適しているとして、お茶を伝えて栽培を奨励したのだという。
 越渓秀格禅師が想像したとおり、谷筋という地形によって生じる寒暖の差と朝霧が、銘茶「政所茶」を生み出す。応仁の乱のころ、永源寺の学僧たちが京の都に「政所茶」を伝えたところ、その味わいが評判となり、その名は各地へと広まっていった。戦国時代、幼少の石田三成が秀吉に献じたとされる三杯のお茶「三献茶」は「政所茶」だったといい、風味に富んだ「政所茶」は秀吉のお気に入りのお茶になったとまで言われる。江戸時代には生産量が増大し、遠くは東北地方にまで流通していたという記録も残っている。その後も幕末から明治にかけて「政所茶」の生産量はさらに増え、茶摘み仕事のために三重県側から鈴鹿山脈を越えて来るものや里のほうから来るものも多かったそうだ。



県指定の自然記念物となっている樹齢300年の大茶樹。高さ1.9m、枝張り7m、幹周りは30cmもある。
 政所町川西地区の集落には、滋賀県の自然記念物にも指定されている樹齢300年を越える茶樹があり、その周囲は小さな茶園になっている。この茶園の面倒を見ているのは、すぐそばに住む白木さん一家。ご主人の白木駒治さんに「政所茶」についてお話を伺った。
 元は農協職員だったという白木さんの茶園は、もちわら(モチ米のわら)を編みこんだ「菰」(こも)で覆われている。これは玉露を作るためのものだそうで、友人の農家から分けてもらった約1反分のわらを白木さん自身が冬の間に編み込むのだという。もちわらの菰をかけると、その雨水が茶葉に滴って色味が良くなり、まろやかさと甘みが出るようになるそうだ。茶園には樹齢300年の茶樹のほか70株ほどの茶木があるが、そのすべてが昔から受け継がれてきた在来種のみ。小規模ゆえに手間隙がかけられるということもあり、今も昔も無農薬栽培が基本だという。
 政所町周辺で生産される「政所茶」はそのほとんどが煎茶だそうだが、白木さんのところでは玉露のみを生産している。煎茶では二番茶や三番茶なども摘むが、ここでは一番茶だけを摘む。いわば、“幻の中の幻の銘茶”ということになり、これが一般の市場に流れることはまずない。ふつうの茶葉よりも香りがすこぶるいいと昔からのお得意さんたちから高い評価を得ている。取材の途中、小休憩でお茶をいただいたが、口に入れると初めほろ苦く、あとからほんのりとした甘みが出てくるのがわかる。まろやかさとともにその滋味深い味わいは、さすが“幻の銘茶”と呼ばれるだけのことはある。



案内していただいた白木駒治さん。後ろにかけられているのが菰。菰の覆いの高さは約2m。この木漏れ日によって玉露独特の濃い色あいの茶葉ができる。


 ふだん、茶園は駒冶さんと夫人の美知代さんで面倒を見ているが、茶摘みの時季だけは、家族、親戚が遠方からやってきて手伝ってくれるそうだ。茶摘みの期間は2日間ほど。朝6時に始められ、途中、休憩を挟みながらお昼まで作業を続ける。昼食の後、またみなで摘み始める。2日間で要する作業量は、のべ15、16人程度。
「茶摘みで大切なことは、茶葉をしごくように摘み、茶軸や古い茶葉が入らないようにすることです」と夫人の美知代さんは言う。この茶園では生葉の状態で約50kgの収量があるそうで、川西集落にある「JAグリーン近江」が運営する「政所製茶工場」で、茶葉はすぐに製茶される。製茶工場はピーク時には夜どうしの作業になるという。茶摘みが終わると、茶園を耕して油粕などの有機肥料を与える。これを昔から「お礼肥え」と呼ぶそうだ。
 駒治さんの話によると、もともと周辺の村々は林業で生計をたてていたが、昭和30年代に木材の需給バランスが崩れ、生産量も減っていった。林業での収入が得られなくなると同時に、若者たちは山を下りていくしかなくなってしまい、小さな谷あいの集落は急速な高齢化に見舞われるようになっていったという。現在、政所町全体の戸数約60軒のうち、お茶に携わっている戸数は20軒程度。川西地区の集落では全体の戸数10軒のうち、5、6軒のみが「政所茶」の生産に関わっているという。幸か不幸か、小さな茶園が多く、茶摘みの機械化が進まなかったこともあり、現在もお茶が初めて集落に伝えられた室町時代と変わらぬ手摘みの方法で茶葉の摘みとりを行っている。逆にそれが、最近になって“幻の銘茶”として各方面から注目されるようになった理由ともいえるかもしれない。

http://dentou.shigabunka.net/e575229.html