アンベードカルの生涯

『アンベードカルの生涯』

ガンジーと対面の日。
アンベードカル「私には祖国がありません」
ガンジー   「あなたは立派な愛国者ではありませんか」
アンベードカル「あなたは、私に祖国があるとおっしゃいましたが、くり返していいます。私にはありません。犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるでしょう。自尊心のある不可触民なら誰一人としてこの国を誇りに思うものはありません」


あのアンベードカル(不可触民出身でインド憲法の父)でさえも、ロンドン大学コロンビア大学の両博士号、ボン大学留学後にインドで弁護士活動をしている時でも、不可触民のために食事すら提供されなかった。コロンビア大学で博士号を取っても、インドの役所で水さえ手に入らなかったアンベードカル。召使にも書類を直接渡すのを不浄と扱われ、不可触民であるために棒を持って押しかけられた。その後、アンベードカルはボンベイ政府の委員会などに選ばれても、小学校の教室に入るのも拒否され、馬車に乗るのも拒否された。アンベードカルが憲法草案を書いたのは、アンベードカル以上にインドで適任者がいなかったからだと言われている。それほどのインドで天才的な人物でも、徹底的に差別された。


『アンベードカルの生涯』(光文社新書)に、アンベードカルがガンジーに「私には祖国がありません」と言っている場面だ。


アンベードカルは、牛糞にまみれた不可触民の子として生れ、不治の病のように忌み嫌われた少年時代を送り、床屋、宿屋、寄宿舎、車、寺院、役所といった社会の総てから疎外され、飲水、食物すら拒否される人生を歩まされ、やがて世界的最高学府で学位を取りながら、その一歩一歩を徒手空拳、血と汗を流し一つ一つ取ってゆかねばならなかった。六五歳という短い生涯の中で、これほどまで多才な目覚ましい働きと学識を誇り得たということは、現代社会では恐らく類のない出来事であろう。『ブッダとそのダンマ』に賭けた仏教再生への凄絶な人生。