川瀬敏郎 先生 お稽古にて2015/04 

花は自分の姿。
自分がだめなところを
はっきりと見させていただけました。



1、ど真ん中でいきること
2、デザインしようとしないこと


ありがとうございます。



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あなただけの「花」


いけることで宿る、花の心。
心を一本の花に託してきた日本の自然。
この豊潤な自然は心をいかしてくれる人を求め続けている。



【花は、いのちのかたち】

 日本で「ハナ」といえば、古くは桜をさしますが、ハナは桜ばかりではなく、バラやチューリップ、そして一見、花を咲かせない松も、私たちはごく自然にハナと呼んでいます。しかしそれは、ハナが単なる植物の花をさすだけではなく、その奥に息づく「花なるもの」を、ハナと言い表わしてきたからです。

 花なるものとはズバリ「こころ」です。したがってハナとは「こころの言葉」の代名詞なのです。日本の花がフラワーを形態的にアレンジするものではなく、世界で唯一、「いける」という言葉を使ってまで言い表わそうとした花を生みだしたのも、花が日本人にとって「こころ」=「いのちのかたち」だったからです。
 
 野を歩いていても自然は、心の声に満ち満ちています。何でもない道端の野の草に自己が投影され、花が自分自身の肖像画を描く。自然が単なるネイチャーではない証です。その自然をいけることで花に新たな心が宿り、その心が自然を豊潤にする。

 「いける」ことは「生きる」ことです。人が生き続けなければならないように、花もいけ続けられて心の花となって生かされ、自然に帰っていく。その積み重ねを通じて、人と自然は輝きあうのです。


【日本人の分母は「自然」】

 私が尊敬する折口信夫という国文学者は、日本の短歌がたった三十一文字で千数百年続いてきたのは、自然という共有できる背景があったからだと語っています。歌にしろ、花にしろ、茶にしろ、「日本のもの」というのは、常に自然という「共通の分母」の上に、「私という点」を形にしてきました。これは、ヨーロッパの、人間という分母の上に個の在り方を示してきたこととは対照的です。

 かつて、川端康成ノーベル文学賞を受けたときに、「美しい日本の私」という講演をしました。これは結局自然という分母の中に、四季を通じて永遠に「美」としての「私という点」を打ち続けていく、その私が実は「日本の私」であるということです。四季が人間の一生を表わし、四季と共生していく中から美という独自の心の境地を生みだしていった。

 その「美」というのは、ある種の「殺人者」だと、私は思っています。たとえば、茶席では初座を終えて、後座の席に初めて一輪だけ花が入るのですが、茶席のにじりロから見上げたときに、清らかな花が一輪、床の間の中心に打ち入れられている。それが心の真ん中に飛び込んできたとき、一輪の花でずぱっと心の扉が切り開かれ、死んだともわからないほどに殺される。殺されることが、美として生きたことになる。血も流さず、まるで何ごともなく、清らかなものを見たと思えてしまうほどの、刺し傷をひとつも残さない花、それが千利休が教えた詫び茶の湯の「一輪の花」なんです。

 利休にはなれないけれども、心の扉を開く一輪の花をいけたいと思うなら、「花をならう」のではなく、「花にならう」こと。花をならうことは単にスタイルをならうだけで、それではその人の人生や品性を表わす花にはなりません。本来の「花をいける」ことが、江戸時代中期以降に生まれた流派いけばなと結びつき、「いける」が「いけばな」と同義語と化したことは、日本の花の不幸かもしれません。

だったら、極論かもしれないけれども、いい男とめぐり会って傷ついて、その体験から出てきたもののほうが、よっぽどあなたの花になると言いたい。自分の人生を一度も賭けたことのない人の花なんて、誰の心も揺さぶることないんですよ。大切なのは、あなたのオンリーワンの花を求めていくこと。決して美人ではないのに存在自体が美しい人や、何をしても不器用なのに魅力的な人はいっぱいいます。逆に、そつがなくてきれいだけれど、心をちっとも打たない人もいる。花も人と同じ。要は、人の心の扉を開かせる花か、そうではない花か、それだけのことです。


【心の数だけ花はある】

人間が花を見ているのと同じように、花も人間を見ています。春風にそよぐ芽吹きの柳を見ていると、ふと「この枝を切ってほしい」と柳のほうから呼びとめられたような気がして、心が柳に向かいます。しかし、実際に切るのかというと、それが生かされることのないものなら、私は切りません。花を切るという作業は本来、とても覚悟のいることです。そこに真実がなければ一本たりとも切ることは許されません。切ったものが新たな心を宿して、人を浄めたり喜ばせることがないのならば、文字どおり花を殺すことになります。

 しかし切ることはまた、花にとってはまったく違うものと出会っていくことでもあります。花どうしの出会いもありますが、いけ手の中にある花の像を室内に持ち込むことで、器との出会いが生まれます。またどういう場所に飾るのかも大事なことになります。こうした出会いは、もとより花自身にはできないことです。出会いを基本とするいける行為が、ひるがえってその人の生き方の鑑になるのです。ですから、心の数だけ花はあるのです。

 花をいけることは、その人自身であると同時に、その人の心の証を大地に刻み続けていく行為そのものです。今よりもっと自分らしい花をいけたいとおもうなら、自分が裸になって、自然と真正面からぶつかることです。心を一本の花に託してきたこの国の自然は、古代よりこの方、心をいかしてくれる人を求め続けている。今なお自然はいける人の手を待っているのです。あなたの手を待っているのです


川瀬敏郎HP